標的を真似た虚しい人生に終止符を2015/01/09 13:48

標的を真似た虚しい人生に終止符を

 

 「真似碁(マネゴ)」とは、囲碁の戦法のひとつで、相手の打った石のマネを

しながら点対称の位置に打っていくことを指します。

 

 これは、相手が手を誤ったらマネを止めて優位に立とうとするもので、私は、

このような戦法を少し卑怯と感じます。

 

 生き方にも「人真似人生」があるようで、内心で「嫉妬」する「あの人」を、

密かに常時監視していて、「自分」は「あの人」より少しでも優位に立って

やろうとする陰湿な生き方です。

 

 社会生活を営んでいる以上、家の中に引きこもってばかりはいられませんから、

どんな人であれ知らず知らずのうちに、面識の有無とは関係なく、ある人から、

「あの人」(標的)にされている可能性があります。

 

 映画「天国と地獄」において、貧しい環境に暮らすインターン(現在の研修医)が

面識がないのに、自宅の窓から常に見える豪邸で裕福な暮らしをしている工場の

役員家族に対し、一方的な憎しみを募らせる光景が映し出されています。

 

 映画では、目に見える貧富の格差を、「天国と地獄」とわかりやすく例えて

いますが、内面の格差であればもっとわかりにくいでしょう。

 

 例えば、「自分」にとって大切な異性が、何らかの原因で「自分」のもとを去り、

それまで順風満帆であった人生が大きく狂ってしまったとすれば、鏡の中には常に、

人生を狂わせた「あの人」や、人生の歯車が狂った時の最も惨めな「自分」の姿を

知っている「あの人」が現れて、「あの人」がごく普通に暮らしているだけでも

「嫉妬」の炎はめらめらと燃え上がります。

 

 さらに、「あの人」が故人であったり、遠方に住んでいて直接手が出せないと

すれば、近くの人物に代替し「自分」の「嫉妬」の炎に水をかけることなども

有り得ましょう。面識があれば尚更です。

 

 鏡を通すと、実際には「自分」が「あの人」に「嫉妬」しているにも関わらず、

その「嫉妬」を否定する為に、「自分」が優位に立っていることを見せつけて

やらなければ気が済まなくなります。

 

 そこで、自己顕示欲を満たそうとしてあらゆる手段に訴えるようになり、やがて、

逆恨みが高じて、逆に、「あの人」が「自分」に「嫉妬」しているとまで言い出す

ようになっていき、自画自賛の嵐が随所に吹き荒れます。

 

 「あの人」には負い目も劣等感もなく、「自分」など全く意識せず、ごく自然に

生きてきたにも関わらず。

 

 標的である「あの人」の人生を、常に、密かに見つめている「自分」は、

「あの人」が、独自の個性と感性で実行した目立つ言動を、次々と真似して、

「自分」の人生を「あの人」と比較して、「自分」は「あの人」の上を行っている

姿を見せつけようとして、無理に高く飛んでいるように見せかけていきます。

 

 「無理」が通れば、引っ込むのが「道理」というものですから、そんな「自分」は

やがて、理屈の通らない、人の道を外れた、倫理感のない生き方をするように

なります。

 

 「あの人」が結婚したと知れば、おめでとうと祝福する代わりに、「自分」の

結婚を焦り、自費出版したと知れば、「自分」は出版社から出版し、会合を

主催して50人〜100人を集めたと知れば、「自分」も会合を主催し、賞状を

もらったと知れば、「自分」も免状をもらったと写真付きで見せ、お寿司をたらふく

ご馳走になってきた負い目は、自宅や外出先で寿司職人と頻出させて晴らし、

妬んでいた庭付きの大きな家から引っ越したと知れば、大きな家に対抗して

小さな植え込みを「自分」の庭と見せかけ、海が見える場所に2件目の新築別荘を

建てると知れば、何としても「自分」も早急に海の見える家を手に入れようと

するなど、どこまでも「あの人」の行動を追いかけて、「あの人」の真似をする

「真似人生」が続くのです。

 

 「あの人」は、自費出版、会合の主催、授与された賞状、引越しの理由、新築別荘

建設について、「自分」に直接話したことなどないが、「自分」は、いつだって

密かに「あの人」を監視していて、常に「あの人」の情報を入手しているから、

逆に「あの人」が、庭のある家に住み、出版社からの出版を果たした「自分」に

「嫉妬」しているとの妄想を、現実のことと見誤ってしまいます。

 

 「あの人」は、「自分」とも、誰とも比較せず、好きな人と好きなことをして

暮らしてきているにも関わらず。

 

 このような人間は、鏡に映った「あの人」と「自分」を常に対峙させ、「自分」の

「嫉妬」を「あの人」の「嫉妬」と置換しているだけなのですが、こうした

「自分可愛さ」「自惚れ」「自己愛」も、度が過ぎると、病的であり、常に自分が

一番でいたいという欲望を満たさなければ気がすまなくなって、世界中どこに

いようと、「あの人」という悪夢から逃れられなくなってしまいます。

 

「あの人」に対する密かな常時監視や「あの人」の近隣に住む人物に依頼して

水面下で実行してきたあらゆる悪事がバレないかとの不安は、安眠を妨げる理由に

なるでしょう。

 

 特に、既に故人でありながら、「美貌」「言行」「人品」「英知」「教養」

「出自」「富裕」「知性」「門地」「家柄」「学歴」「職歴」「財産」等、

総てにおいて「自分」より秀でており、絶対的優位な立場にある強者であり

勝利者の「あの人」に、家族や親戚がいる場合は、より深刻です。

 

 なぜなら、最初から、人間としても、同性としても圧倒的上位にある「あの人」に

激しい「嫉妬」の念を抱いていながら、「自分」は、それを隠して利益と恩恵を

得るために擦り寄って、内心を偽り利用するために交流していた場合、「あの人」

への「嫉妬」が、そのまま「あの人」の身近にいる遺族などへの「嫉妬」となって

飛び火し、「あの人」が代替わりすることがあるからです。

 

 そんな「自分」が一歩でも社会に踏み出せば、世界中のどこに在っても、新たな、

次の「あの人」を見出さずにはおられず、経済的にも精神的にも、「自分」よりも

優位で、力のある「あの人」に積極的に近づき、接触して、助けを求め、あらゆる

手を借りて、「自分」から突き動かし、一方的に依存してお世話になっていながら

、内心に激しい「嫉妬」の炎を抱え、その場その場で秩序を破壊して、「あの人」

個人のみならず、「あの人」の家族や親戚に対して、或いは「あの人」が所属する

会社や「あの人」が所属する団体にまで足を踏み入れて、多大な迷惑を掛けたまま、

「あの人」の利用価値が無くなれば、背を向け、礼儀を失し、恩義を欠き、前述

したとおり、「人の道に外れた生き方」をして、逃げるように生きていくこと、

そして次の「あの人」を求めて彷徨うことの繰り返しが必至だからです。

 

 「あの人」の前で、顔は笑って見せていても、「自分」の心は、獣のように牙を

むいているのです。

 

 そして、「あの人」は、「自分」への「嫉妬」から、こんなことをしているのです。

と公言した時点で、「自分」の「あの人」への「嫉妬」を証明したのと同じこと

なのです。

 

 次から次へと「あの人」を探さずにはいられない、そんな「自分」に、私は

「標的を真似た虚しい人生に終止符を打ちなさい」

「社会との関わりを捨てなさい」

と提言します。